No.5恨み骨髄の中国人の心は会津人と同じです

八月。戊申から早や百数十年も経った会津。知っておられるか、当地では未だに戊申戦役で亡くなった士族、その子女にいたるまで、毎夏、深い追悼の思いに沈んでいる。線香の煙はどの墓地にも絶えない。会津を襲った理不尽な官軍への恨みは山口県人や鹿児島県人への憎悪となって、いまだ煮えたぎっている。同じ日本人同士でも、市街戦で受けた恨みとはそういうものなのです。

それは1世紀以上も前の出来事だろう。いつまで恨みに思っているのだ。世代も変わったし当時の政府も、今はもうない。だからいつまでも拘らず・・・と、山口県から、もうそろそろ、仲良くしようとラブコールを送っても、会津では受け付けない。知事の名前であろうと、破り捨てる。それが地上戦での遺恨であり、語り継がれた生々しい実感は何世代も越えて受け継がれる。恨み辛みとは、そういうものである。

中国に進出した企業家諸君よ、君らの工場の敷地で戦時中、関東軍や派遣軍がどんなことをしてきたか、思いを馳せたことがあるか?

日本の戦史には、現地人をいわれもなく虐殺した記録などは検定教科書などに一切ない。だがそれは戊申の戦いで山口県人が会津市民をどのように殺したかを書かないのと同様、後世に遺すに、あまりよい影響をあたえまいとする配慮からであるし、筆者もある程度、その配慮も大事だとは思う。だが諸君、貴君らは自分の会社の資金を何百億円と持って行って、中国の古戦場にプラントを建てるわけだから、その実態を調査しないでどうする。君らは実感をもって建設を開始したか? 現地人の恨み骨髄のもの凄さを簡単に考えていたのではないのか?

高級軍人や軍閥企業は戦争を知らない。それはJETROや文科省管轄の資料を頼りに中国プラントに踏み切った貴君らと同じで、相手さんの現場を考えないご都合主義者である。

話は跳ぶようだが、戦後、筆者の家はアメリカ将校たちを招いての鹿鳴館だった。私の父は軍需工場の社長で戦後は自宅が接収からまぬがれんと、連日連夜ダンスパーティの開催していた。本社工場は空襲で丸焼け。「しげお、見てみい、よう焼けとるなあ・・・」彼はそういって、赤々と燃え盛る大阪の空を見てさみしく笑っていたのを今も記憶する。

父の例で複雑な心境だが、こういう人物は戦争の悲惨さを知らない。招待したアメリカ将校に流暢な英語で、B29はいかに優秀だったか、しかしゼロ戦はいかに優秀だったか、そんな話で談笑。こういう連中は本当の戦争を知らない。たぶん、「日本軍はつおかった」としか言わない石原慎太郎もその類いだろうが、中国戦線に駆り出された一般の兵士たちはどんな悲惨は現場を見たか。一例を挙げると、「母親の見ている前で赤ちゃんをこうしてして放り上げ、それを銃剣で・・・」「女の足を右と左、二匹の馬につないでさ・・・」みなまで言わない。いいか、諸君、中国ではそういう話が貴君の工場の周りで今でもいっぱい生きているということを、貴君らは承知でプラントを建てたのか、と問い詰めたい。まったく勉強不足だと思ったら、責任もはんぶんは日本企業の進出を決めてどんどん進めた、安易な心の持ち主にもある。

 

さらに云えば、責任は教育者側にもある。現在の日本の中高はもちろん大学でさえ、対中国戦略には、戦中のむごたらしさなどは、さっぱり講義しない。中国の人口動態、資源の分布、3次産業の実態、税制、公共投資の実態などは講義するけれども、肝心の「人の心の大切さ」を説かない。 

グローバリズムな無神経な科学の世界ではない。相手は人間なのである。テクノクラートが下したロボトミーのための教育内容を学んで、貴君ら企業家たちが中国に出向したのならば、その物欲一辺倒で独りよがりな勉強ぶりがもたらしたリサーチの果ての撤退が訪れても当然だと筆者は思う。 

筆者はかかる企業の失敗にあまり同情はしない。君らは大損して撤退したら、ミヤンマーで轍を踏むな。人心とはそう甘くない。中国企業の経営者は、自らの甘さを知って、すべての資金をなげうってでも会社の損失を埋め、従業員に退職金を払って終わりにした方がよいだろう。トヨタもホンダも、中国ではよき教訓を得たと思えばよろしい。遺された設備を生かして中国側がどう繁栄するか。世界の人民がそういうかたちで潤えば、それはそれで良いと判断するほかないだろう。